2018年4月から武蔵野美術大学の通信課程 総合コースの学生になります。
社会人が本業、学生は副業。本でも副でも業は業ですので、二足の草鞋で今年は歩んでいきます。
併せてコミュニケーションデザインコースを志望していたので、何故総合コースなのかというお話もあるかと思います。
回答としては、ムサビ通信では1・2年次は全員が総合課程に在籍し、3年次への進学の際に専門課程となるコースを選択するカリキュラムになっている為です。
3年次にそれぞれの専門課程を選択するカリキュラムというのも一つのポイントで、1-2年次に履修登録する科目の中に各コース指定の必修科目ともいうべき科目が存在しています。
それらを履修完了していないとそれぞれの専門コースに進むことができないという仕組みになっているのです。
詳しくは 設置課程・募集人数 | 入学を希望する方 | 武蔵野美術大学 通信教育課程という大学の公式ページに記載してありますので、ムサビ通信に興味のある方はご参照ください。
次に改めて、現状を整理しました。
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デザイン情報学科を目指す理由
このブログを始めた1月から3月にかけて、仕事上の変化やアートへの向き合い方に対する心境の変化もありました。
【記事】 2018-Pe-11.武蔵野美術大学通信課程の履修登録をしてみた 〜2018年〜 - @マークぐるりん でも書いていますが入学を検討していた当初から考え続けているコミュニケーションデザインコースを目指すか、デザインシステムコースを目指すかの問題にはまだ回答を出せていません。
ちなみに、双方ともデザイン情報学科という総合課程の中に位置づけられていて、一部必須講義などは共通しています。
デザイン情報学科
情報をデザインする力を身につける、コミュニケーションデザインとデザインシステムの2コース。
通信教育課程デザイン情報学科は、グラフィックデザインを基礎に、他者に何が伝わり何が伝わらなかったのかを検証しながら、その理解と研鑽を糧に総合的な情報伝達を形成する人材を育成します。
そのためここでは造形素養の修練、情報形成やネットワーク形成の手段としてのコンピュータの知識などとともに、新しい表現と豊かな関係を創造するデザインの可能性について学びます。
いま社会で何が必要なのか、何が求められているかを十分理解し自らの視点をもって情報を再構築しながら、共感と魅力を創造できる力、すなわち「デザイン力」を獲得することが教育の目標です。
話は変わりますが、コミュニケーションデザインは別に美大でなくとも、学べるのではないかという類のご指摘をTwitterでいただいています。
返信ありがとうございます!
— 樟葉 涼@MAU通×Art×SAP (@kusuharyou) 2018年3月27日
現在企業活動の基幹業務システム導入周りに従事していますが、1-2年内にそのフローの前後、工場のスマート化ですとか顧客体験設計にシフトを考えています。その為美大の目的は共通して根底にあると思うコミュニケーションデザインの概念、技術を学ぶが4割。趣味が6割です。
確かにコミュニケーションデザインはムサビ通信でなくても、学ぶことはできると思います。
それでもなお、イマ学んでおきたかったのは、やはり学んでみたかった。作ってみたかった。もっと踏み込んで作るという意思を否定しがたかったからです。
仕事の延長線上でも学ぶ事に意味が生じるというのは後付けの理由で、資金対効果の面でも自分自身の理性にそれなりの言い訳が立つという程度の意味合いに過ぎないのです。
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コミュニケーション×デザインについての一考察
コミュニケーションというと、基本的に人×人をイメージ、あるいは想定しがちです。
しかし、Twitterでも書きましたがそれは佐渡先生とアナライザーのようなAI×人もそうですし、もっと抽象的な地域×人等でもそういった概念が生じうると認識しています。
機械と人のコミュニケーションで、ある種の感動を覚えたのは、「ドラえもん」です。そして、すごく羨ましく思いました。
私は、コミュニケーションの根幹はお互いに変化を与え合うことだと考えています。
テレビ版だとのび太の行動に対して、(テレビ版特有のドラえもん時空の影響もあり)ドラえもんが常に同じ行動を返しているように見えますが、時系列のスパンが長い劇場版では、のび太が成長し、それに伴ってドラえもんも成長するという正のフィードバックループが発生しています。負のフィードバックループもありますが。
なにより、興味深いなと思うことは、ドラえもんが喜怒哀楽の内の、哀を時折みせることです。
哀はかなりざっくりとした単純化をすれば、1が0になること。1が失われたことに対しての感情ではないでしょうか。
あったもの、がなくなる。
喜びや怒りといった状態の変化が高度ではないというつもりはありません。
ただ、ある種、死の概念にも通じる哀愁をコミュニケーションの中で受容できるドラえもんという存在は、どのような考えでデザインされたのかを含め、非常に興味深いなと今は思うばかりです。